日独学術交流雑記帳

「ブルーノ・タウトの人生と作品」 田中辰明 氏
(DAAD奨学金にて1971~73 Berlinに留学)

2014-06-25

「ブルーノ・タウトの人生と作品」
お茶の水女子大学名誉教授  田 中 辰 明 (DAAD, Berlin 1971~73)
日本フンボルト協会、DAAD友の会、日本ケルン・アルムニ・クラブ、日本フライブルク・アルムニ会共催の講演会におきまして表記のタイトルで講演させて頂けることは、この上ない光栄であります。
ブルーノ・タウトという名前はドイツ人の建築家というよりも、「日本美の再発見」(岩波新書)の著者として日本人には知られています。この本を読むと翻訳者篠田英雄先生の名訳を通じてタウトという人が如何に哲学的に物事を考え、捉え、活動したかが読者に伝わって参ります。「言葉の一つ一つが詩的であり、哲学的である」というと近寄りがたい人物であったのではないかとも考えられますが、実際はそうでもないのです。来日に際してはエリカという婦人を同伴して敦賀に上陸しています。その後もエリカをタウト夫人ということで通しています。しかし実際には熱烈な恋愛の末結ばれた正妻が離婚もせずドイツに残っていました。このような面もある人物であります。
2012年4月6日に東京都港区赤坂のドイツ文化センターで日独交流150周年記念シンポジウムが開催されました。この事業に先立ち織田正雄さんを中心に何度も打ち合わせが行われました。オイレンブルグ伯爵率いるプロイセンの東方アジア遠征団が江戸沖に来航したのが1860年の秋です。翌1861年1月に両国は修交通商条約を結び、現在に至る長い友好関係の礎が築かれました。この間に多くのドイツ人が日独交流に貢献しました。しかし多くの現在の日本人に知名度が高いのはやはりブルーノ・タウト(1880~1938)ということになり、記念シンポジウムの基調講演を筆者が行うことになりました。これに合わせて中央公論新社から「ブルーノ・タウト・・日本美を再発見した建築家」という新書を出版いたしました。
筆者は1971~73年の間ベルリン工科大学へルマン・リーチェル研究所に客員研究員として在職していました。1972年に恩師である建築家武基雄先生の訪問を受けました。ベルリンは有名建築の宝庫ですから、それらを訪ねてくる多くの訪問者を受け入れました。多くの方は私の設定する3時間コース、6時間コースなどの有名建築訪問で満足して頂けました。しかし武先生はそうではありませんでした。「自分はこれとこれを見学したい!」とのご主張でした。その一つがオンケルトムズヒュッテという場所に建つ集合住宅でした。この団地には筆者のドイツ人の友人も住んでおり、よく武先生ご指定の集合住宅の前を通って友人を訪問したことがありました。この集合住宅こそタウトの設計だったのです。この集合住宅を車でご案内しましたら、「オー」とおっしゃりそのまま棒立ちになられ、一体この方はどうされたか心配したものでした。その夜ベルリンの拙宅を訪問して下さった武先生はブルーノ・タウトのことを詳しく説明してくださいました。ナチス政権を逃れ来日したブルーノ・タウトを受け入れたのは早稲田の建築学科の先輩達でありました。早稲田大学と東大で講演を行い武先生は東大にも付いて行って講演を聞き、かつ集合住宅設計論を直接説明して頂いたとのことでありました。なぜオンケルトムズヒュッテの集合住宅で棒立ちになられたのかその時にお伺いすればよいものを、武先生の圧倒するお話に押されて、質問しそびれてしまいました。筆者も1973年末に帰国したのですが、武先生はその後病魔に襲われ、ついに帰らぬ人になってしまわれました。「不明な点、疑問に思った点があったらその場で質問し解決すること」というのがその時に得た教訓でした。
筆者は武先生のベルリン訪問以来、すなわち、1972年からブルーノ・タウトの作品を追い続けて参りました。従って多くの図面や写真を所有しております。2012年出版の中央公論新社新書版では残念ながら写真を大幅にカットする必要がありました。涙をのんで削除した写真が多かったのです。その時に東海大学出版会からタウトに関する本の出版依頼を受けました。この本は「ブルーノ・タウトと建築・芸術・社会」というタイトルで2014年に出版されました。その時に昔ベルリンで撮影した白黒写真のネガも引き出し印刷をしてみました。40年前のネガであったが損傷はなく、本書に使用することが出来ました。これも大きな喜びでありました。当時のドイツのフイルム技術、現像技術に感謝する次第であります。1933年にブルーノ・タウトは来日し、宮廷文化である桂離宮、また代表的な神道建築である伊勢神宮を激賞しました。これは当時太平洋戦争に突入しようとしていたわが国の政権にとっては非常に好都合なことでありました。国粋主義の高揚に役立ち、西欧人には文化的にも技術的にも劣等感を持っていた当時の日本人に自信と誇りをもたらせました。そのことから大政翼賛会からの出版物にもブルーノ・タウトは紹介され、高く評価されました。またタウトの著作は文部省の推薦図書となり、多くの読者を得ました。しかし実はブルーノ・タウトは生涯を通じ戦争反対者、平和主義者でかつ社会主義者であったのです。これは東海大学創立者松前重義先生の思想と合致するところであり、東海大学出版会から出版のお誘いを受けたひとつの理由でもありましょう。本日はこの本の内容にしたがってお話を進めていく所存です。
来日したタウトは日本では建築設計の仕事が出来ず、高崎の少林山だるま寺の「洗心亭」に籠り専ら日本文化を紹介する著述に専念しました。多くの読者を得ましたので、日本人は「タウトを文化評論家であった、いや文化に詳しいルポライターであった」と考えている人も多いのです。また仙台、高崎で工芸の指導を行ったことから工芸家であったと考えている人も多いのです。しかし来日するまでに、ベルリンで12000戸の集合住宅を設計するなどすでにドイツでは有名な建築家でありました。このうち4つの集合住宅団地(ジードルング)が2008年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。日本文化にあこがれ折角来日したタウトでありましたが、戦時色を強めていた当時わが国にはタウトに適した職はなく、結局1936年11月にはトルコへ向けて離日してしまいます。時代、時局に翻弄された天才建築家タウトの生涯を本日の講演で追うこととします。タウトについて調査すると今まで言われてこなかった「タウトは環境に配慮した建築家」、「建築環境工学を実践した建築家」ということが明らかになってまいりました。冒頭にタウトを「詩的な哲学者」のように書きましたがその例が、タウトが2年半にわたりエリカと共に住み執筆活動に専念した高崎の少林山達磨寺の洗心亭の傍らに建つ石碑に刻まれたタウトの書「我、日本文化を愛す・・Ich liebe die japanische Kultur」でありましょう。

写真参考資料 ブルーノ・タウト①ブルーノ・タウト①
ブルノー・タウト②ブルーノ・タウト②

参考文献
1. 田中辰明・柚本玲「建築家ブルーノ・タウト—人とその時代、建築、工芸 オ-ム社
2. 田中辰明 「「ブルーノ・タウト」・・日本美を再発見した建築家、中公新書2159
3. 田中辰明 「ブルーノ・タウト・建築・芸術・社会」東海大学出版会

Copyright(c) 2013 The Humboldt Association of Japan All Rights Reserved.