日独学術交流雑記帳
「留学報告放談」西土彰一郎会員
西土 彰一郎 会員(成城大学法学部准教授、憲法学)
(2009年から2011年までMainz大学、Heidelberg大学に留学)
成城大学法学部の西土彰一郎と申します。専門は、憲法学、なかでもマスメディアの自由について勉強しております。ドイツには2009年4月から2011年3月までの2年間、アレクサンダー・フンボルト財団の奨学金を得まして、留学することができました。本日は「放談」ということでございますので、専門の話にはあまり立ち入らずに、私の留学経験を簡単にお話したいと思います。
さて、なぜ、「フンボルト財団」の助成により「ドイツ」に留学したいと考えるようになったのかについて、まず述べてみたいと思います。今考えてみますと、その理由は、私が学生時代に読んだ阿部謹也先生の自伝にまで遡ることができます。ご存知の通り、阿部先生は30代後半にフンボルト財団奨学生としてドイツに赴き、古文書との格闘の中で、かの「ハーメルンの笛吹き男」と出会うわけです。そうした研究プロセス、ヨーロッパ文化、そしてフンボルト財団を紹介する阿部先生の自伝的書物を読むことにより、フンボルト財団奨学生としてドイツで研究することに漠然とした憧れを抱くようになりました。もちろん、阿部先生の本は、こうした憧れを抱かせると同時に、「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」を探し追究する姿勢など学問の厳格さをも教えるものであります。
この憧れと戒めの二つは、その後、紆余曲折を経て研究者になってからも、常に心に中にありました。とりわけ、「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」の追究に関しては、あまりにも素朴で言うのも恥ずかしいのですが、私にとってのそれは、「自由にものを言うことができる社会」の追究、憲法論に即して述べるならば、表現の自由の理論の追究にあります。この問題意識を踏まえて、詳細は割愛しますけれども、具体的なテーマとして、マスメディアの自由、専門家としてのジャーナリストの自由などを勉強し、さらには公共放送(日本でいうNHK)の存在意義について考えてきました。しかし、日本の憲法学では以上のような研究はあまり活発であるとは言えません。これに対して、ドイツでは、国家社会主義時代におけるプロパガンダの反省から、この方面の研究はきわめて盛んであります。同じような歴史を有する日本とドイツのこの差は何であるのか。この問題意識を深めるためにも、日本の学説状況と鋭い対比なすドイツの学説状況、その背景にある政治的、社会的「環境」に実際に身を置くことにより、日本の憲法をめぐる状況を深く認識しようと考え、フンボルト財団奨学生に応募しまして、2009年4から2011年3月までの2年間、留学する機会に恵まれたわけです。最初の1年間はマインツ大学メディア法研究所に、後半の1年間はハイデルベルク大学法学部およびマックス・プランク比較公法研究所に滞在いたしました。滞在先を変えたのは、私の受け入れ教授であるGrzeszick先生がマインツからハイデルベルクへ移籍したという事情がありました。
留学生活の基本は、ここでも阿部謹也先生を模範として、朝から夜まで研究室や図書館でメディア関係の本や論文を読解することに当てました。とりわけ、マインツ大学メディア法研究所には、ZDF(ドイツ第二放送)のお膝元だけあって、私の研究テーマに関わる文献が豊富にあり、非常にありがたい環境で勉強することができました。
こうした文献読解と並んで、週に3回ほど、受け入れ教授の講義や興味のあるゼミなどに出席して、できるだけ、ドイツ憲法の体系、最近の研究者の問題関心などを知ろうと努めました。時折、ドイツにおけるジャーナリストの自由のあり様を探るため、また、留学していた時には公共放送の財源についていろいろと問題になっておりましたので、この論点を伺うため、各州の公共放送などメディア関係者のインタビューに赴きました。とりわけ、ジャーナリストの自由に対する問題意識は、州によって温度差があり、きわめて興味深い研究上の視点を得ることができたように思います。
今思うと、以上のような講義の参加やインタビューなどによって、私の研究の問題意識がどれだけ深化したかわかりません。留学も後半に入り、受け入れ教授から論文を執筆するように言われて、まとめの作業をしていた際にも、こうした問題意識を反映させることができました。
ただ、このように述べると、私のドイツ語運用能力は問題ないように聞こえるかもしれません。しかし、私のドイツ語会話能力は悲惨そのものでした。今でもそうです。かつて井上ひさしが、「世の中の方が辟易して地の涯まで逃げたくなってしまいそうになるのが天才である」(井上ひさし『宮澤賢治に聞く』(文春文庫、2002年)53頁)と書いているものを読んだことがありますが、私の場合は、下手なドイツ語で道を尋ねると、ドイツ人が逃げていくという意味で「天才的な」ドイツ語だったのかもしれません。けれども、私がお世話になった研究室の方は皆親切であり、受け入れ教授からは、研究者にとって大事なのはしゃべることよりも書くことであると慰められ、助手の方からは、ぺらぺらしゃべるよりも訥弁の方が研究者らしいといった励ましをいただき、大変救われました(情けない気持ちにもなりましたが)。とりわけ助手の方からは毎日昼食を誘われ、大変親切にしていただきました。私のドイツ人の友人は決して多くありません(日本でも友達はあまり多くいません)。しかし、今でも付き合いのある受け入れ教授、助手の方も含めドイツの友人は皆、人格円満でインテリジェンスの高い人たちばかりです。それは、ドイツの友人が私の下手なドイツ語を辛抱強く聞いてくれる、そして的確に理解できる語学センスがあることを意味しているのに他なりません。そう考えると、たとえ見知らぬドイツ人にドイツ語が通じなくても、そういう人とは縁がなかったと思えるようになりました(神経が図太くなっただけかもしれません)。もちろん、私もドイツ語の勉強の努力を怠ったわけではありません。しかし、結局のところ、私が最後まで実践したことといえば、毎日、いわゆる高級紙を隅から隅まで読む、そうして昼食のときに面白そうな記事を助手の方に振って意見を求める、そうして話を展開させていく、ということくらいです。会話のコンテクストを私が作るわけですから、相手の話も理解でき、また、いろいろな情報も得ることができました。「攻撃が最大の防御」ということでしょうか。結局は自分が知りたいことを前もって準備しておくことが大事という当たり前なことでして、これは、先ほどのインタビューの際にも威力を発揮したように思います。
このように、周囲の親切により、大変充実した研究生活を過ごすことができました。しかし、やはりそうは言っても海外生活は人知れず苦い思いをすることもあります。そうしたなか、6月にベルリンで開催されたフンボルト財団の総会に出席したことは、今でも良い思い出となっております。この総会は、出身国、分野を超えて、フンボルト財団奨学生が一堂に会する機会です。私にとりましては、現在北海道大学工学部の名誉教授であられる藤川重雄先生、そしてさらに日本からの若い理系の研究者の方とお知り合いになることができたのは、かけがえのない財産になっております。後で頂いた藤川先生のご著書での表現を拝借するならば、まさにドイツで日々研鑽を積んでおられる先生方の後ろ姿から、無言の励ましをいただいたように思っております。
この放談の最後に、私の留学生活を振り返ってみますと、いろいろな感慨を覚えます。私の面白くもない留学経験でもいろいろとお話したいことがあるのですが、一言だけ私の感慨を述べさせていただくならば、先ほどの無言の励ましは何も日本人研究者からだけではなく、マインツ大学であれ、ハイデルベルク大学であれ、マックス・プランク研究所であれ、同じく学問を志す者として日々研鑽を積む教授、助手、そして学生や留学生のうしろ姿から、無言の励ましをいただいているとの思いを常に抱いていたということです。ある意味、学問共同体を肌で直接感じることができたと言えるかもしれません。この意味で、Heimwehを感じたことは一切ありませんでした。そもそもフンボルト財団それ自体が、グローバル化した学問共同体といえるのであり、その一員としてドイツで研究できたことを大変ありがたく思っております。フンボルト財団は、温かいHeimatのようなところだと感謝申しあげまして、私の放談を終えたいと思います。ありがとうございました。 以上
(DAAD奨学金にて1971~73 Berlinに留学)」→