日独学術交流雑記帳
ドイツ一般啓蒙書の翻訳
柳井 浩 会員(応用数学、慶應義塾大学名誉教授)
(1974年から1975年までフンボルト奨学金にてHamburg大学に留学)
フンボルト留学生としてドイツで勉強したことは,私にとってかけがえのない体験でした.研究者としても人間としても得るところは非常に大きかったと思います.これも,フンボルト財団とドイツ連邦共和国の寛大かつ懐の深い文化事業のおかげと感謝しております.これに報いるには,何か学術的・文化的な活動による他はないと思っておりましたが,浅学非才,なすところもなく,馬齢を重ねて参りました.
ところで,皆様よくご承知の通り,ドイツには学術書はいうまでもなく,レベルの高い一般書が数多くあります.私も若い頃,オストワルドの「化学の学校」の翻訳などを読んで感激し,ドイツ語版を読もうとして手に入らなかったことがあります
昨今我が国では,若い年代に限らず,ドイツ語を解する人達が少なくなっており,ドイツのよい書物が読まれることがすくなくなっておりますが,これはまことに残念なことです.
私たちが退職後の残った時間を使ってこのような書物を翻訳すれば,日本の皆様にとっても益があるばかりでなく,ドイツ側の文化発信という点にもお役に立てようかと考え,少しずつ手を染めてみたのが次の二書です.
1. Albrecht Beutelspacher/ Bernhard Petri: Der Goldene Schnitt. Spektrum Akademischer Verlag, 1996
アルプレヒト・ボイテルスパッヒャー/ベルンハルト・ペトリ著,柳井 浩訳:黄金分割 -自然と数理と芸術と-.共立出版,2005
2. Henri Brunner: Rechts oder links in der Natur und anderswo. Wiley –VCH, 1999
Henri Brunner著,柳井 浩訳:右?左?のふしぎ.丸善出版,2013
一冊目の「黄金分割」というのは,黄金比,すなわち,正五角形の一辺と対角線の長さの比率による線分の分割のことです.黄金比と黄金分割は数学上,造形美術上大きな役割を果たしているばかりでなく,生物界にも広く見られるものです.西欧では,この比率に関する関心が特に強く,アテネのパルテノン神殿の正面,その他の建造物のそこここに用いられています.この関心は非常につよく,一部には神秘主義に陥っているのではないかと思われるマニアもいるくらいです.
著者の一人であるボイテルスパッヒャー(・・・パッハーと読むべきだというご指摘を受けました.) はドイツ数学教育界の第一人者 (ギーセン大学教授) ですが,この黄金比・黄金分割の問題を,まずは数学的立場からキチンとわかりやすく解説し,ついで,その応用をめぐる数々の話題,また,黄金比マニアの狂奔ぶりを冷静かつユーモアを交えて紹介しています.
次の「右?左?のふしぎ」の原著者ブルンナー教授は有機化学の泰斗です.化学物質は原子レベルで見れば,立体的な構造をもっています.これを鏡に写した構造の物質は,構成する原子こそ同じですが,性質,特に生物体に対する影響は大きく異なる場合が少なくありません.一方は薬,他方は毒として作用することもあります.
鏡に写した形――右の掌と左の掌の関係です.ブルンナー教授は専門の化学の範囲にとどまらず,広い世界に目を向け,右と左の関係がこの世界でどのような場面で現れ,どのような役割をはたし,どのように取り扱われているのか,その例を長年にわたって多数集めて来られました. それらを,美しいカラー写真を添えて紹介,わかりやすく解説したのが,この本です.さいわい,丸善出版のご協力で,翻訳書にもカラー写真が掲載され,ご好評をいただいております.
筆者の専攻はオペレーションズ・リサーチ,応用数学,形の科学といった分野で,上記の書籍も2002年にハンブルグ市に数ヶ月滞在した際に店頭で見つけて購入したものです.書物の善し悪しは,手に取り,めくってみないと,なかなか分かりません.我が国で店頭に並ぶドイツ語書籍は年々数が少なくなっております.渡独の機会があれば,もちろん書店を覗きますが,短い滞在期間では思うに任せません.ドイツ側からのオファーがフンボルト協会あたりから仲介されれば,翻訳者を見つけることは可能だと思うのですが.
また,翻訳に際しては,訳語の調査に苦労しました.学術用語には用語集などがありますが,動植物の俗名などは,その種類が違っていたり,範囲の異なるものが辞書に載っていたりします.ドイツ在住50年の言語学者の江沢 健之助先生もこの点を憂いておいででした.本書の場合にも,翻訳出版後専門家の方からご指摘をいただいた部分もあります.翻訳上の経験を収集,整理する組織的活動も,可能ならば,有益だと思います.