日独学術交流雑記帳
白井光太郎著「獨逸高山リイゼンゲビルゲ植物採集紀行」に寄せて
7月1日
6時ごろ旅館を出発し,まずシユネエグルウベン(Schneegruben)というところを目指した。ここは街道より一里(4キロ)ほども右に入ったところで,道はとても険しいので,その曲り道の入り口で皆は荷物を人足に預け,山の上の旅館へ送って,身軽になって進んだ。木立のあるところを過ぎ,大きな涸沢に出た。大きな岩どもが算木を乱したように積み重なって道を塞いでいる上を,靴で進むのはとても危険であった。両手で岩角を掴んで這うようにして,かろうじてここを過ぎ,やがてSchneegrubenに着いた。ここは深い谷の底で,灌木が生い茂り,前面の石壁の岩間には,はい松(Pinus montana)が非常に多かった。ここで採集した植物は以下のとおりである。
Aconitum Napellus L.(トリカブト)
Androsace obtusifolia All.(サクラソウ科トチナイソウ属)
Alectorolophus alpinus Walp.(ゴマノハグサ科オクエゾガラガラ属,現学名Rhinanthus alpinus)
Anemone alpina L.(キンポウゲ科イチリンソウ属)
Anemone narcissiflora L.(ハクサンイチゲ)
Alchemilla fissa Schumm.(バラ科ハゴロモグサ属)
Alchemilla vulgaris L. (バラ科ハゴロモグサ属)
Bartschia alpina L.(ハマウツボ科バルトシア属,現学名 Bartsia alpina L.)
Botrychium Lunare L.(ヒメハナワラビ)
Cardamine amara L.(アブラナ科タネツケバナ属)
Chroolepus jolithus Agardh(菫の香りがする藻類の一種,現学名 Trentepohlia jolithus (L.) Wallroth,スミレモ科)
Chaerophyllum hirsutum L.(セリ科カエロフィルム属)
Galium saxatile L.(アカネ科ヤエムグラ属)
Geranium silvaticum L.(フウロソウ科フウロソウ属)
Hieracium montanum Schneid.(キク科ヤナギタンポポ属)
Hypochoeris uniflora Vill.(キク科エゾコウゾリナ属)
Linnea borealis L.(リンネソウ)
Petasites albus Gaertn.(キク科フキ属)
Pleurospermum austriacum Hoffm.(オオカサモチ)
Pinus montana Mill. (モンタナマツ,葉にさび病菌Peridermium による感染がみられる)
Rhodiola rosea L.(イワベンケイ)
Polygonatum verticillatum All.(キジカクシ科アマドコロ属)
Ranunculus aconitifolius L.(キンポウゲ科キンポウゲ属)
Saxifraga moschata Wulf.(ユキノシタ科ユキノシタ属)
Senecio Fuchii Gm.(キオン,現学名Senecio nemorensis L. subsp. fuchsii)
Thalictrum Aquilegifolium. L.(カラマツソウ)
Thesium alpinum L.(ビャクダン科カナビキソウ属)
Vaccinium myrtillus L.(セイヨウスノキ)
Viola biflora L.(キバナノコマノツメ)
11時ごろより雨が降り出したので,ここを出てまた元の道に戻り,ブレスラウから来た人々は山を下り,私たちは山の尾根に向かい,上と下に袂を分かった。ここより上は,樹木は絶え,道は次第につま先上がりの急な坂となった。雨はますます降りしきり,風さえ加わったので,全身雨に濡れて濡れ鼠のようになり,11人離れ離れとなった。エングラア先生は,当年55歳で,一行の中では年上なので,遅れがちになったが,先生だけは雨(レイン)衣(コート)を準備していたので,雨には少しも濡れておられなかった。私は常に先生の後ろに従って登った。薬学生2人も私たちの前後になって進んでいた。しばらくして,山の尾根のSchneegruben-Baude という旅館に着いたのは,午後1時半であった。このあたりの岩石の表面には,チズゴケ(Rhizocarpon geographicum)という松蘿科(サルオガセ科サルオガセ属の地衣類)の黄色い植物が広がって生え,雨に濡れてひときわ鮮やかであった。記念のためひとかけら採ってきた。旅館は海抜1490mの地点に立っており,5階建ての高層建築で,壁の厚さは三尺(90cm)以上もあるので,そのような暴風雨も家の中に入ると少しも聞こえず非常に静かだった。先に行ってすでに到着していた人たちが出迎えてくれた。階下の酒舖にて一杯の葡萄酒に喉を潤し,3階の部屋に入って濡れた衣服を脱ぎ,旅館の男に依頼して乾かしてもらった。他の人々は持ってきた肌着と着替えている人もいた。また,旅館より着替えを借りたりして寒さをしのいだ。私はまだ旅館の案内を知らず,言葉も通じにくいので,濡れた肌着を着て衣服の乾くのを待っていた。そのうち空腹と寒気で耐えられなくなり,手足はわなわなと震え,物も言えないくらいになった。ついには,ふとももの筋肉が引きつってずきずきと痛み出し,もう死ぬかもしれないという気持ちになった。ギルヒ博士が私を気遣い,大丈夫ですか,と聞いてこられた。葡萄酒や温かい食物などを運ばせ,労わってくださったので,やっとのことでもとの体に戻り,危うく命拾いした。3時半になったころ,エングラア先生が,明日の植物採集の都合があるので今日中にここを出て山の背に行こう,さらに3時間ほど進んだところにあるプリンツハインリッヒバウテ(Prinz-Heinrich-Baude)という旅館に行ってそこに宿泊するんだ,と厳かに言い渡された。暴風雨は少しも止むときはなく,ますます烈しくなったので,随行の人々は先生が前進しようとするのを思いとどまらせようといろいろと頼んだが聞いてくれない。いったいどうしようかと人々は罵りあった。私は衣服も渇いて元通り元気になったので先生と一緒に行きますよ,というと,ギルヒ氏のいうには,君は外国人なので,もはや前進することはできないとの旨を名札に書いて先生に出して見せれば,あるいは先生の心を動かすこともあるだろう。なにとぞ私たち一同のために一言記してほしいと切実な調子で頼まれた。断ることもできず,「イヒ デンケヱ ダス イヒ ニヒト メエア ゲエヘン カン(私はもはや進むことができません)」云々と書いて与えた。交渉の結果はどうなったのだろうと人々が心配していると,ギルヒ氏が戻ってきた。先生は,それならばとどまりたい人はとどまりなさい,私は前進するから,とおっしゃっているのこと。それ以上どうすることもできなかった。私たち4人,すなわちDr. Gilg(ベルリン博物館職員),Dr. Greenman (アメリカ・ハアバアド大学からの留学生),Winograsky(ロシアからの留学生)および私が今晩ここに宿泊して明日になってから先生に追いつくことになった。公務として先生に随行する人々はどうしても前進を続けなければならないというので,残りの人々は吹きすさぶ雨風を物ともせず出発していったのはけなげであった。夕食後,押葉を整理し,10時半ごろ就寝した。
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