日独学術交流雑記帳
白井光太郎著「獨逸高山リイゼンゲビルゲ植物採集紀行」に寄せて
3日 注6)
昨日とはうって変わって空はよく晴れたので,私たち4名は勇み立って出発した。8時に宿舎を発ち,10時半にPrinz-Heinrich-Baudeに到着した。「ストヲンスドルフエル」という酒を酌み,しばし休息し,ここから出発して進んでいくと,行く手の方より来た3-4人連れの旅人の一人が私を見て驚いた顔をし,こんなところにまで日本人が,と「ヤパァナア ビス ヒイヤヘヤ」(Japaner bis hierher!) と声高に叫んで,道を譲って行き過ぎていった。大僧正行尊法師が大峰山中で詠んだ歌注7)などを思い出し,限りない嬉しさを感じた。前記のドイツ語の意味は,日本人を指して,「ヤパネエゼ」というのは,蔑んだ呼び名だが,「ヤパアナア」というのは尊敬の意味を表し,「ビスヒイヤヘヤ」とはここまで来たのかという意味である。すなわちこの言葉の意味は,日本人がこのような山の奥深くまで,よくも来たものだと感心してほめたたえたものである。11時Wiesen-baudeを過ぎ,12時にRiesen-baudeという旅館に入って昼食をとった。このところより,右の谷間にあるRiesengrund というところを下り,朝からここで採集しておられたエングラア先生の組と合流し,2時半ごろまで採集した。ここでは,
Agrostis rupestis All.(イネ科ヌカボ属)
Arabis Halleri L.(ハクサンハタザオ類縁種,現学名Arabidopsis halleri L.)
Betula pubescens Ehrh.(ヨーロッパダケカンバ)
Calluna vulgaris Salisb.(ギョリュウモドキ)
Cardamine parviflora L.(コタネツケバナ)
Corallorhiza innata R. Br.(ラン科コラロリザ属)
Geum montanum L.(バラ科ダイコンソウ属)
Gnaphalium dioicum L.(キク科ハハコグサ属)
Gymandenia conopea R. Br.(テガタチドリ)
Listera cordata R.Br.(コフタバラン)
Polygonum bistorta L.(イブキトラノオ)
Pyrola uniflora L.(イチゲイチヤクソウ, 現学名 Moneses uniflora L.)
などを採集した。
3時に谷から上がり,途中のBergschmiede というところの旅館にてしばらく休息し,牛乳,ビール,ラムネ,パンなど思い思いのものを用いて鋭気を養った。また元の峰通に出て,リイゼンバウデを過ぎ,午後5時シユネエコッペの麓にあるMelzer-grund に到着して,ここのLomnitzfallという飲食店に入って休息した。シユネエコッペの最高峰はここからさらに200mほど高いところにある。私たち数人は,6時に宿舎を出て,つづら折りの急な坂を上り,30分を費やして山頂に到達した。同行した園丁長さんは,昨日と今日採集した生の植物を箱詰めに荷づくりして,山頂にある郵便局に持っていき,運送を依頼した。ところが郵便局職員は,この山にて植物を採集することは禁じられている,政府からの特別な許可証を示さないと取り扱いはできないといって聞いてくれない。山下におられるゲハイムラアト(枢密顧問官=エングラー教授)がお持ちだといっても,自分の目で見なければ許可できないといってきかない。その証明書をわざわざ取りにいって,何とかしてことを納めた。このように規則が厳しく守られているのは,称賛すべきことではないかと思う。7時に山下の旅館に戻り,これより帰路につく。途中で植物を採集し,8時にWiesen-baudeという旅館に着き投宿した。この夜は,一行の人々は旅行の無事であったことを祝って夜更けまで酒を酌んで遊んで暮らした。学生の謝辞,先生の演説などがあった。この家には,田舎で活躍する芸人が泊まっており,大鼓,鼓弓,笛,鈴鼓などを持ってにぎやかに踊る様子は,鄙びていたが古風であり,大変面白かった。また,Fremden-Buch für Botaniker「来訪した植物学者のための記帳」というものが備えられており,この家に泊まった植物学者が自らの姓名を記入していた。30年以上前に,エングラア先生が,ブレスラウの中学教師として,生徒を引率して登山したときの筆跡は,後進の植物学者たちにこれからもずっと読まれることだろう。
米国人博士のグリインマン氏は,金網の押葉押えを携えてこられた。始終だるそうに見えたが,昨日より今日にかけてあまりの苦労のため弱って熱が出たそうで,早く就寝して休んだ。私はルウランド(エングラア先生の助手),ジイグマン(薬学生)などの人々と酒を酌み交わし,午前1時に床に就いたが,胸が轟いてなかなか寝付けなかった。
4日
午前4時にベッドから起きだして,7時に近くの高原をめぐって植物を探し,
Lycopodium Selago L.(ヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属)
Lycopodium alpinum L.(チシマヒカゲノカズラ)
Lycopodium clavatum L.(ヒカゲノカズラ)
Cetraria islandica(エイランタイ)
Cladonia rangiferina(ハナゴケ)
Primula minima L.(サクラソウ科サクラソウ属)
Rubus Chamaemorus L.(ホロムイイチゴ)
Vaccinium Vitis-idaea L. (コケモモ,病原菌感染がみられるもの)
Carex erima L. 注8)(カヤツリグサ科スゲ属)
Scirpus Baeothyron Ehrh.(カヤツリグサ科ハリイ属,現学名 Eleocharis quinqueflora (Hartmann) O.Schwarz)
などを採集し,再び旅館に入って荷物を携え下山した。道すがら植物をとり,9時にKleine Teich というところに到着した。このあたりはすでに山の背を下りた岩山で,切り立った崖の岩の間に松が這っており,歩きにくかった。池の周りの草原に美しい草花が咲き乱れているのは,さながら人工の築山に庭木草花を植え付たようで,なんともいえない眺めであった。日本に来る西洋人が,我が国の名高い林泉の築山を見て,よく高山の趣を再現していますね,とほめてくれるのは,あながちお世辞ではなかったことがわかった。ここはHampel-Baudeという旅館に入って昼食を取り,その後山側でSalix Lapponum L(ヤナギ科ヤナギ属)を取り,11時ここを出立して,途中Schlingel-Baude のそばでSalix nigricans Sm(ヤナギ科ヤナギ属)を採り,Waldhaus にて小休憩し,午後2時58分にKrumhübel駅に着き,9時にベルリンに帰着,駅にて別れのさかずきを酌み交わして,それぞれ家路についた。
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