日独学術交流雑記帳
白井光太郎著「獨逸高山リイゼンゲビルゲ植物採集紀行」に寄せて
余話
(1)同行する人々の姓名は以下のとおり。
Prof. A. Engler(大学教授兼ベルリン王立植物園,植物博物館長)
Dr. E. Gilg(ベルリン王立博物館助手)
Dr. P. Graebner(ベルリン王立植物園助手)
Dr. W. Ruhland(ベルリン大学植物学科助手)
Ax. Lange(ベルリン王立植物園園丁長)
Franz.Vallmer(ベルリン王立植物園園丁)
J. M. Greenman(アメリカ合衆国マサチユセット,カンブリツジハアバアド大学)
J. Siegmann(ベルリン大学医科学生)
J. Isaac(ベルリン大学医科学生)
Winogowictz(?) (ロシア人,ベルリン工業学校学生) 以上
(2)同行した人々の中で,採集筒を携えて行ったのは,植物園丁長と園丁の二人であった。米国人グリインマン氏は金網の押葉器を携え,ルウランド氏は押板に少しばかりの押紙を挟んだものを,ひもで背中につりさげて行かれた。これは,寄生菌を取って納めるためとわかった。他の人々は,別に採集器を持たず,荷物を携え,とても身軽に出発したので,足の進みはとても早く,私は重いリュックサックを背負って行ったため,歩くのが精いっぱいで十分観察することができなかったのが残念の極みであった。
(3)一行の中で,園丁長Ax. Lange 氏はデンマアクの山中で育った人で,そのため菜食主義者である。肉類は口にせず,パンの外には落花生(ピーナツ)や乾かしたスモモの実を袋に隠し持って,まるでタバコを吸うようにして時々取り出して食べていた。私は肉類を食べないけれど健康そのものですよ,と言っていた。そういえば,ベルリン市内に菜食料理店があるし,このような人は他にもきっとたくさんいるのだろうと思った。
(4)一行の中で,ウイノゴウイクツ氏はさっそく写真機を携えて行き,いたるところで風景を写していた。ベルリンに帰ったあと,このうちの5枚を製版して私にプレゼントしてくれた。この人は工業学校の学生だが,エングラア先生の植物学も聴講していた。この5枚の写真は,よい記念の品となり,珍しいものとして大切にしまってある。この厚意に私は深く感謝しており,決して忘れることができない注9)。
(5)この旅行中に嬉しく思ったことの一つは,山の上の旅館Schneegruben-Baude の食堂にて使用した紙ナプキンが日本製であったことである。この青色で印刷された絵柄は右下に屋形船に乗る若い男,左の下には老婆と老翁を描いていた。左上には水仙の花,右の角には唐草の模様があり,図柄の意味はよくわからなかったが,これらが日本で製造されたものであることはみじんも疑うことができない。なお,現品は証拠物として持って帰ってきたので,よろしければお見せすることもできる。また,日本製の扇を飾ることも広く行われ,山中Riesenbaude の客室の飾りにも使用されていたのを目撃した。現状では,我が国の物産で広く海外の地方にいきわたっているものは,わずかにこの扇と紙ナプキンくらいだが,もし他の種々の品物もこのような山中にまで来ていたらどんなに嬉しいことだろうと思うのは,無理な願いではないだろう。
(6)リイゼン山脈一帯の地は,植物採集に制限を設けており,貴重植物を保護するための法律がある。取り締まりは大変厳重で,旅館にもこのことが委任されているようだ。少なくとも密告の方法は備わっているように見受けられた。旅館の近くの場所で採集をしているのを見れば,旅館の者が出てきて制止することがあった。また,旅館で押葉を作っているのを見て,植物採集は禁止されていると言い聞かされることもあった。さらに,平地に近いSchlingel- Baude 近辺でも,食卓の花瓶に造花が挿されていたのを見て,いかに厳重に規則が守られているかを知った。その結果,山中に至る途中の草木は,人に邪魔されることなく,天真爛漫にのびのびと美しく競うように咲き乱れ,植物学者だけではなく通常の旅人の心目を惑わせている。これは並大抵のことで成し遂げることはできない。これに反して,我が国の日光山の植物のようなものは,何も知らない山の民が金儲けのために採りつくすのに任せており,貴重な種類が絶滅に至っても顧みるものもいないのは嘆かわしいことである。その極地として,昨年7月に登山したときも,中禅寺湖のほとりで,トウヤクリンドウ(Gentiana algida),ツガザクラ(Phyllodoce nipponica),イワヒゲ(Cassiope lycopodioides)などの類をひとからげにして背負ってくる男に遭った。私を見ると,買わないかといい,もはや太郎山などに珍しいものはないなどとつぶやいたのは情けなかった。
(7)新設のベルリン王立大植物園と博物館の状況等については,丸善書店発行の拙著植物博物館及植物園の話に詳しく記しているので,ここでは二重に書くことはしない。
注1) 現在ではチェコ・ポーランド国境にあたり,Krkonoše/Karkonoszeと呼ばれている。
注2) 当時のドイツはプロイセン国王ヴィルヘルム2世の在位中であった。
注3) Riesengebirgeはドイツ語で巨人の山脈を意味する。
注4) ベルリン市内のターミナル駅Görlitzer Bahnhofを指している。
注5) 現在のヴロツワフ(ポーランド)。
注6) 「7月3日」ではなく,「3日目」のことだと考えられる。次の「4日」も同様に「4日目」と読みとれる。
注7) 小倉百人一首66番 前大僧正行尊「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」について言及していると考えられる。
注8) Carex x emmae L. Gross と推定される。
注9) この原稿が掲載された植物学雑誌第219号の発行日は,明治38年(1905年)4月20日である。日露戦争は1904年(明治37年)2月8日に開戦し,1905年(明治38年)9月5日に終結した。
(以上)