日独学術交流雑記帳

30年前のカルチャーショック

2013-06-08
dr01

名古屋大学工学研究科 教授 金 武 直 幸
(材料工学・シュツットガルト塑性加工研究所)


 2011年3月、東日本大震災によって東京電力福島第一原子力発電所の事故が発生した。その3ヶ月後にドイツ政府は2022年までに国内の全ての原発を廃止する新エネルギー法案を閣議決定した。この素早い英断の報道を耳にしながら、30年前のカルチャーショックを思い出していた。私の専門分野は材料工学(Werkstoffwissenschaft)で、1984~85年にフンボルティアーナとしてStuttgart大学の塑性加工研究所(Institut für Umformtechnik)に滞在していた。初めての外国生活であれば、見るもの聞くもの全てに驚かされるのは当然であるが、当時の日本では考えも及ばなかったことが目の前で次々と展開されていた。

 ドイツ人の環境意識の強さはよく知られていたが、それを痛感させられた出来事がある。冬のある朝、日本で普通にやっていたように、屋外に駐車していた車のエンジンを始動して暖気運転をしながらフロントガラスの霜を拭いていた。そこを通りがかった男性が「すぐにエンジンを止めなさい」と怒鳴ってきた。ドイツ語は何とか理解できたものの、その意味が理解できずに男性の顔を眺めていたら、「警察に届けるぞ」と再び怒鳴られた。別の日にドイツの田舎街をドライブ中に、車を止めてアイドリングのまま道路脇に立てられた地図看板を見ていたら、通りがかった老夫婦が同じように声をかけてきた。アイドリング放置の禁止条例を初めて知った。日本では、2000年前後から同様の条例制定が始まっている。小学校の頃からミミズを使って土壌改良の自然の営みを教育していることは聞いていたが、古紙・空き瓶・空き缶などの分別回収、スーパーでのレジ袋の有料化、交差点でのエンジンストップなど、最近でこそ日本でも普通になっている“エコ・・・”の光景が、30年前のドイツ人の生活に普通に溶け込んでいた。

 大学の研究活動でもカルチャーショックは続いた。自動車産業との関連が深い塑性加工研究所では、工場の生産現場と同じ規模の生産機械が何台も並び、実製品そのものを研究対象にした実験が繰り広げられる様子に目を見張らされた。国立大学の教授が研究受託会社の社長でもあり、研究所には国に雇用された者、その会社に雇用された者、共同研究プロジェクトで雇用された者が同居していた。研究所の年間研究費は、30%が国から、70%が民間企業からと聞いた時は、ドイツ語を聞く自分の耳を疑った。大学内で企業技術者を集めた研究討論会が頻繁に開催され、時には非公開で外国人の私は参加を許可されなかった。法人化後の日本の大学においては、いずれも違和感は無く驚くような光景ではなかった。しかし、学生運動の真っただ中で受験勉強し、「産学協同」を悪とする立て看板の列に迎えられて大学に入学した当時の私にとっては、そのカルチャーショックはあまりにも大きかった。また,大学の研究所にはWissenschaftliche Hilfe (HiWi)と呼ばれる学生アルバイトが実験補助をしていた。講義の合間や講義を休んで一定期間契約する純粋なアルバイトで,学生支援経費の一環である。その後の日本でも、Research Asistant (RA)やTeaching Asistant(TA)の予算が措置されているが、あのHiWiとは実効性がかなり異なる気がする。

 関東と関西でエスカレータの立ち位置が異なるが、日本ではエスカレータ上を歩くことは容認されていない。あの頃のドイツのエスカレータには、片側にstehen(立つ人)、もう一方にgehen(歩く人)と書かれて歩くことが認められていた。改札も出札も無い鉄道・地下鉄、速度無制限で料金所も無い高速道路、どんなに小さなバス停でも設置されている自動券売機、週末には無料となる駐車メータ、朝早くから家の前の除雪や枯葉掃除に汗を流す。合理性と自己責任が徹底しているドイツ社会に滞在して、今も鮮明に覚えているカルチャーショックは数え切れない。議論好きで、頑固なまでに自分を主張して止まないドイツ人であるが、自分が生活する社会に対する意識と関心の高さが一番のカルチャーショックであった。

(2013.05記)

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