日独学術交流雑記帳

『最後の博物学者 アレクサンダー=フォン=フンボルトの生涯』(古今書院)を書きあげて

2015-09-01

『最後の博物学者 アレクサンダー=フォン=フンボルトの生涯』(古今書院)を書きあげて
筑波大学名誉教授 佐々木 博 (DAAD Freiburg 1962~64, A. v. Humboldt Bonn 1972/73・78)

フランスの船で渡欧
 1962年度DAAD生からドイツへの旅費をドイツ政府が負担してくれるようになり、「7月28日横浜発のフランス郵船『カンボージュ丸』に乗るように」と2等乗船券が送られてきた。当時フランス国営郵船MM:Messageries Maritimesがマルセイユ~神戸・横浜間をスエズ運河経由でぼぼ月に1便、1.5万トンの貨客船(船客600人)を配船、運航していた。船名がふるっていて、旧仏領インドシナの国名に因んで、「ラオス」・「ヴェトナム」・「カンボージュ」丸の3隻であった。マルセイユまで30日かかり、寄港地は香港・サイゴン(現ホーチミン)・シンガポール・コロンボ・ボンベイ(現ムンバイ)・ジブチ/アデン(往路はジブチ、帰路はアデン)・スエズ・ポートサイド・マルセイユ(帰路はバルセロナにも寄港)であった。
 2等船客まではサロンの利用やダンスパーティに出席できた。3等客は前甲板の下で、私費渡欧学生が利用していた。ダンスパーティは長い船旅で退屈している御婦人船客を船のオフィサ―らが相手をしてサーヴィスしている趣があった。DAAD生13名のうち、神品友子さん(拓殖大)・内海 晶さん(国立音大)の女性がいて、それなりに踊れたので、ダンスシューズでもない堅い靴で結構夢中になってダンスを楽しんだ。踊れない人は指をくわえて眺め、飲んでいるだけであった。1等でも5階級あり、駐日ベルギー大使ご夫妻が、任期を終えて帰国するために乗船していた。船上は国際社会で、多様な人種・民族がおり、船内放送と紙に張り出されるニュースはフランス語と英語であった。フランスの船では食事にはフランスワインが無料で置いてあり、坂井(東大)・岩波(早大)・伊藤(東電)と小生(教育大)のテーブルではよくワインのボトルをアンコールした。空のボトルを差し出すと黒人のボーイがもうないとばかりに難色を示すと、黒服を着たmaitre d’hôtelがporter porterと命令して新しいボトルを持って来させ、自らナイフで栓を開けてグラスに注いでくれた。「客は王様」の精神が随所に見られた。
 「船で1か月も退屈でないですか?」 多くの人に聞かれた。プールはある、映画もある、4時のお茶もある、競馬まである。現代の7万トン以上もあるクルーズ船に比べれば小さな船ではあったが、街で3000円もするようなフランス料理を毎食食べられる、こんな贅沢は飛行機では1等客でも味わえない。

Schwarzwald西麓フライブルク大学 
 1457年、今日のドイツ領内ではで6番目に古い大学で、神学・医学・法学・哲学の4学部で発足した。地理学教室は本来自然科学数学学部にあったが、第三帝国時代Metz教授が学長としてストラスブルク大学の学長を兼ねるほどの大者であったため、戦後追放された。戦犯が首相に帰り咲いた日本と同じく、復古調に乗ってMetz 教授が復権したが、本来の地理学教室にはすでにシュレージエンのブレスラウ大学からのCreuzburg教授がいたため、哲学部に地理学教室IIを新設し、そこの教授となった。図書はMetz教授個人のものを提供し、その後の予算で購入していったため、図書室は貧弱であった。私の属したのはこの地理学教室IIの方であったが、教授はMetzの後継者としてボン大学からBartz教授が着任しており、両教室の緊張関係は薄らいでいた。Bartz教授からはドイツ最高級品ワインRuländerを産する「Kaiserstuhlのワイン栽培」のテーマを与えられた。バーデンワイン研究所には大変お世話になり、そこの所長家族が友達と訪日した時に鎌倉などを案内した。外国人留学生の特権で、地理学教室IでもIIでも、好きな授業に出席しただけでなく、長期の野外巡検にも両方の教室のものに参加させてもらった(教室IIの18日間のオーストリア、Iの3週間の南ティロールと北イタリア平原)。林学教室のラインの湿地林への巡検にも参加し、営林署の森林保安官の緑のマントの制服を格好いいと思った。
 1963年4月、突然フライブルク市長から「ユネスコ国際会議を記念して市庁舎でレセプションをやるので出席願いたい」の招待状。どうせ外国人留学生がみんな来るのであろうと思って、コールテンのズボンで市庁舎へ。ユネスコ国際会議に参加した学者と同じ国の留学生を若干招待した小さなパーティで、そこで学問の神様丸山真男さんにお目にかかれた。「今ハーヴァードに来ているので、ちょっと足を伸ばしてこの会議に来てみました。東大法学部でもなかなか出られないのですよ」。翌日、メンザで好美さん(一橋大 民法)と酒井さん(名古屋大 解剖学 ターヘルアナトミアを現代語訳した)に話すと、顔色が変わり「えー どこにいるの 案内しなければ」。 留学とは日本で会おうと思っても会えない人と会えたり、会う必要もない人と会うことがよくある。
 ベルリンの壁が作られて2年目、東西ドイツが緊張しており、「Hallstein Doktorin」(東ドイツを承認した国とはドイツ連邦共和国は外交関係を断つ)が通用していた。東ドイツとはオーデル=ナイセ以東の旧ドイツ領のことで、世界が東ドイツと呼んでいる領域は「Mitteldeuschland中部ドイツ」である、とドイツの教科書では教えていた。フライブルクから外国人留学生はドイツ政府の費用でバスでボンへ。2泊して「東ドイツはいかにひどいことをするか」をteach-inされ、東ドイツ領内をアウトバーンを通って「赤い海に浮かぶ陸の孤島」西ベルリンへ。西側への東ドイツ住民の逃亡と反共産主義パンフレット散布を警戒して、境界での検査は厳しかった。バスの下へ鏡をいれての検査まで。東ベルリンは外国人は自由に入れたが、西ドイツ人はほとんど不可能であった。

首都にあったボン大学
 1972年フンボルト財団奨学研究員に採用されたが、私学の立正大学のため、旅費は自費。横浜から「バイカル」号でナホトカヘ、夜行列車でハバロフスクへ、アイロフロートソ連航空でモスクワへ、2泊してスプートニークなどソ連の誇る人工衛星などをみせられ、列車でヘルシンキへ、あとも列車で合計1週間かけてボンへ、いわゆる「シベリアルート」。 
ボンは西ドイツで17番目の都市が首都となった。ライン川左岸のローマの軍営から発達した静かな大学都市に政府諸官庁の建物が作られ、師範学校が連邦議事堂になった。人口が増え、公務員と住居が競合する貧乏な学生は不利で、「学生のためにもう1部屋を」と叫ばれていた。ボン大学経済地理学教室にいる間に、独英地理学会がルール工業地域を中心に行われ、オランダとの国境で、「あの柵の向こうがオランダ領だ」とボン大学のAymans教授の説明に、イギリス・アイルランドの学者はシャッターを切りまくっていたのを見て、やはり島国の人は陸の国境に異常な関心をよせるのだなあと、10年前の自分を振り返った。
 ボンの都心にはオランダの花卉栽培農家が花を日中販売して、夕方になるとオランダへ帰って行く。日本から岡本京大総長がフンボルト財団の招待で来た時、レセプションが行われると、ボン近郊のフンボルト奨学生も招待されてお相伴にあずかることもあった。ボン大学での研究テーマはボン北西郊のVorgebirgeの野菜栽培であった。日本と都市化による近郊農村の変貌は似たものもあるが、経営面積が広いため都市住民のための農家が経営するポニー牧場があったり、日本では築地・淀橋・荏原などの都会の生果市場に農民が産物を持参して、そこで競られるが、ドイツでは産地にある生果市場に仲買人が集まってきて競る。
 均分相続によって耕地が細分分散化し、経営効率が極端に悪くなっている。細分分散耕地を統合し、そこに農家を新築するFlurbereinigung農地整備が、EUの統合と共に経営面積の大きなフランス・オランダの農業に対抗するために、巨大な予算を掛けて進められてきた。農村の再開発であり、転住Aussiedlungによってあいた土地に都市住民のweekend houseが作られたりする。

三度のドイツ留学を国際交流に
 数年ことに日本とドイツで、地理学者による日独地理学会がルール大学Schöller教授のイニシアティブで 行われ、そこでの発表論文作成によって両国の学問上の交流が盛んになった。4年に一度の国際地理学会IGUへの出席、毎年世界中のどこかで開催されるIGUの部会CSRS;Commission for Sustainable Rural Systemへの出席の際には、ドイツ留学時にできた人脈は懐かしく、有効なものであった。1995年、ポツダムBabelsberg撮影所でのドイツ地理学会などへも参加し、旧交を温めた。
 1992年より3年間、「ドイツ統一による旧東ドイツの地域変貌」のテーマで、文部省の海外学術調査を遂行する際にも、ハイデルベルク大学のMeusburger教授、バイロイト大学のMaier教授などには、文献・資料収集などで図書館を使わせてもらったのみならず、コピー代までもお世話になった。Wiesbadenの連邦統計局にたまたま来ていたベルリン支所長Angermanに逢い、後でベルリンに調査に行くので宜しく。後日、ベルリンの統計局の窓口で「Angermanに会いたい」と伝えると、受付で「お前らのような若者が所長に会えるはずがない」。「Wiesbadenでコンタクトをつけてあるので、ともかく連絡してください」。秘書の女性が窓口に迎えに来た。応接室で所長はコンタクトを付けてくれただけで、実務は東ベルリン人の所員と長く話した時、東の人と西からの管理職との大きな差を読み取った。同じ仕事をしていても東の人の給料は西の人の8割しか得られないことも。現在はその差は小さくなっているようである。
 Mecklenburg-Vorpommern州の州都Schwerinへ調査に行った時、ただ1台Bonnナンバーの車を発見。東西ドイツ統合のため各種行政システムを合わせるために、提携する西ドイツの州からBerater助言者なる顧問が送り込まれてきた。Bonnナンバーの主もその一人で、「僕もBonnナンバーを付けていたことがある」と告げると喜んで、会議があるのに時間を割いて説明してくれ、各種資料も提供してくれた。Beraterとは進駐軍で、戦わずして東ドイツは西ドイツに占領されたんだ。ボン大学のAymans教授の「ラインランドがプロイセン領になった時、郡長・校長などあらゆる管理職にプロイセン人が派遣されてきた」を思い出した。
 旧東ベルリン内務省に置かれた東ドイツ国有財産管理信託公社Treuhandに調査に行った時、担当者は週末にはボンに帰るという。「時間とお金が大変でしょう」と聞くと、それらの人のために週末にボンや西ドイツ行きの特別便や列車が運行されていた時期があった。
 1996年から6年間、文部省の科学研究費で「中央ヨーロッパにおける地域構造と生活様式の変化」の調査を7名で行った。対象国はポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー・ルーマニアであった。国会図書館・統計局・国土地理院・大学などで資料を収集し、個別問題は農家や工場・担当官庁などで調査を行ったが、ほとんどドイツ語で用が足りた。中央ヨーロッパ(日本では東ヨーロッパと呼ぶことが多い)におけるドイツ語の有効性を感じた。学者や機関の上層部の人達はみなドイツ語を理解していた。

Alexander von Humboldtの伝記
 DAADとフンボルト財団などドイツのお金でドイツで勉強・研究させてもらった日本人は数千人にのぼる。研究者の多くはフンボルト財団の研究奨学金を利用してきた。しかし、財団の名称となっているAlexander von Humboldt個人のプロフィールについてはほとんど知られていない。探検家にして自然地理学の創設者くらいの理解しかない。あらゆる学問に関係する万能の学者であり、その活動範囲は外交・科学・内政に止まらず、たえず庶民と虐げられた人々への愛から活動していた。大病理学者Virchowが「シュレージエンのチフスは医学の問題ではなく、社会問題である。プロイセン政府にこの醜態の責任がある」と批判したためにベルリンを追放された時、アレクサンダーは根気よくその復権に努力し、近代病理学を確立した学者の縁の下の力持ちになっていた。
 父から受けたおおらかさと緻密さ、家庭教師カンぺなどから受けた遠い外国への憧れ、家庭教師クントから受けた幅広い学力と啓蒙教育、ベルリンサロンでの高度な知識・洗礼された会話・平等感・社交性、20代初めで体験したフランス革命、母の死による思いがけない大きな遺産、スペイン国王御璽のあるビザ、大切に培ってきた人脈、64歳にして大学でなお勉強しようとする好奇心の大きさとあくなき知識への渇望、近代科学が細分化する前の19世紀という時代的巡り合わせ、生涯独身で家庭に縛られない身軽さなどが、フンボルトが業績を上げて世界的有名人となりえた理由として挙げられる。
Serendipity(偶然の幸運に出会う能力)は、①行動、②気付き、③境遇の受け入れ、を通して得られる、と言われている。幸運は棚(たな)牡丹(ぼた)のように、落ちては来ず、行動して掴まなければ得られない。フンボルトは6カ月も同じところにじっとしていることはなかった。絶えず行動していた。気象・地磁気観測網拡大の提案、カスピ海の水位低下への提言など、「勤勉な人間は、良いことと、大きなことを、しようとおもわなければならない」とのフンボルトの手紙から、自分の人類的使命をうすうす感じて行動してきたのかもしれない。

 フンボルト財団とドイツ政府のこれまでのご恩に少しでも報いられるようにアレクサンダー=フォン=フンボルトの伝記を書いてみた。フンボルト財団奨学研究員経験者とこれからそれに応募しようとする者、ドイツ全般に関心と好意を感じる人々に、読んでいただけたら幸いである。出版社は古今書院(東京都千代田区)。   
2015.9.1 記す                

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『最後の博物学者アレクサンダー=フォン=フンボルトの生涯』
佐々木 博著(筑波大学名誉教授)
A5判ハードカバー・274頁・定価5832円(税込)(表紙画像
ISBN978-4-7722-2019-4
発行:古今書院(http://www.kokon.co.jp/)

[内容]アレクサンダー=フォン=フンボルトの世界的視野はいかにして培われ,開花していったのか。近代科学の生みの親フンボルトについて日本人が書いた初めての伝記。風景画や地理のカルタ遊びに強い好奇心を抱いた幼少期の教育から,数々の海外探検を成し遂げ,科学者としての尊敬を集めるに至ったフンボルトの生涯を余すところなく描く。つねに弱者の立場にたち,各国の植民地政策を批判していた彼は世界をどのように見ていたのか。これまでほとんど紹介されていないロシア・中央アジア探検の記述が目を惹く。著者は,1962~64年にドイツ政府留学生(DAAD Stipendiat)としてフライブルク大学哲学部地理学教室に留学。1972~73年と1978年にはフンボルト財団研究員としてボン大学社会地理学教室に在籍。

[目次]1.今なぜアレクサンダー=フォン=フンボルトか?/2.灰色で友だちもいない幼少期/3.四つの大学で勉学/4.鉱山官時代/5.海外探検への自立/6.アメリカ探検旅行/7.アメリカからの帰還と2年間のベルリン滞在/8.アメリカ旅行をまとめるためパリに長期滞在/9.ベルリン帰還と市民講座/10.ロシア・中央アジア探検/11.宮廷貴族にして科学の支援者/12.晩年の生活/13.今日に残したもの/あとがき/アレクサンダー=フォン=フンボルトの年譜/参考文献

*日本フンボルト協会会員は以下のアドレスにフンボルト協会会員であることを明記の上、
お申し込みください。割引が適用されます。 (hara@kokon.co.jp)

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